宮島商事の近代史遺産
-historic-
宮島商事の近代史遺産
宮島商事には、北部九州地方の近代史を今に伝える遺産があります。
(1) 致遠館(ちえんかん)跡
幕末の慶応元年(1865年)、佐賀藩は長崎の五島町にあった諫早藩士山本氏の屋敷に、佐賀藩校英学塾「致遠館」を開いた。米国人宣教師フルベッキを校長に、副島種臣と大隈重信を教師補佐として、英語をはじめ、欧米の新しい知識と学問を教えた。佐賀藩が広く門戸を開いた結果、幕府役人勝海舟の子、子鹿(ころく)、公家の岩倉具視の子、具定(ともさだ)、具経(ともつね)、後に世界的生化学者となる高峰譲吉らがここで大隈らの指導を受けて学んだ。致遠館最盛時の学生数は100人を超え、幕末から明治にかけて活躍する数々の俊才を育てた。当時27歳の大隈は教育者として最初の大きな仕事をした。明治維新に伴いフルベッキ、大隈らは東京に移ることとなり、致遠館は閉鎖された。
明治43年(1920年)宮島商店は、致遠館が置かれていた諌早藩屋敷の土地と建物を買い取り、宮島商店長崎支店を開いた。この建物は昭和41年(1966年)解体された。下の写真3枚は長崎支店として活用されていた旧諫早藩屋敷(旧致遠館)。最後の写真はその跡に建てられた長崎支店で、平成17年(2005年)まで活用された。
早稲田大学が平成14年(2002年)建学120年を迎えるにあたり、同大学より、致遠館の跡地に記念碑を建立したいとの申し出があった。佐賀県産の白御影石で石碑を作り、正面の碑銘「致遠館跡」は奥島孝康総長が書かれた。石碑の側面には、次の銘文が彫られている。
「1865年、佐賀藩が英学塾・致遠館を設立した。当時の佐賀藩士・大隈重信の熱意によるもので、校長にフルベッキを迎え、大隈自らも教壇に立ち、短い間であったが、ここから明治維新以降の日本の近代化に貢献した多くの人材が巣立っていった。後に大隈は早稲田大学を創立するが、彼の教育理念の原点がここにある。
二〇〇二年三月 早稲田大学」
現在の宮島商事本社社屋について、菊池典子氏(NPOからつヘリテージ機構)は以下のように記している。「この洋館は、八世宮島傳兵衞(徳太郎)が役員をしていた北九州鉄道(現JR筑肥線)の社屋として建てられました。鉄道免許の申請が行われた1916(大正5年)年6月、唐津銀行の監査役・池田市五郎が敷地を取得。建物はこの年から本社屋として建設されたと思われます(2023年4月26日佐賀新聞「たてものがたり」)」。
現在のJR筑肥線は昭和10年(1935年)に開通したが、同12年(1937年)、国有化された。この時北九州鉄道(北鉄)のバス部門だけが民営として残り、この社屋は北鉄自動車(株)の社屋となる。この会社は昭和16年(1941年)に昭和自動車となった。
第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)九世傳兵衞が急死し、その弟庚子郎(こうしろう)と十世傳兵衞が相次いで戦地に赴く非常事態となった。昭和19年(1944年)、庚子郎はこの土地と建物を昭和自動車から買い取り、戦後の26年(1951年)、土地を宮島醤油に、建物を宮島商事に売却した。
菊池典子氏は佐賀新聞記事を以下のように結んでいる。「宮島商事本社社屋は今も唐津の交通と産業の変遷を映し出す近代産業遺産なのです」。
現在の宮島商事本社社屋