宮島商事株式会社の沿革
-History-
(1) 七世宮島傳兵衞の事業
宮島商事の沿革は佐賀県唐津地方及び北部九州地域の近代産業史と深く関わっています。事業の多くは七世宮島傳兵衞にその淵源を求めることができます。七世宮島傳兵衞は嘉永元年(1848年)生-大正7年(1818年)没の事業家です。
舞鶴公園下(唐津城の東麓)に宮島商店石炭部が置かれ、大阪支店、神戸支店を開設。上海航路での輸出にも進出した。下は明治24年(1891年)東松浦郡役所が発行した「石炭問屋」証明書。
明治22年(1889年)唐津港は国の特別輸出港に指定された。同29年(1896年)唐津興業鉄道(株)設立。同32年(1899年)厳木—唐津妙見(西唐津)間に鉄道(今のJR唐津線)が開通。大正8年(1919年)北九州鉄道(株)設立。難工事の末、昭和10年(1935年)伊万里—東唐津—博多間の鉄道(今のJR筑肥線)が完成。七世傳兵衞とその長男徳太郎(後の八世傳兵衞)はこれらの事業に出資者及び経営者として貢献した。下は鉄道と海運の拠点として賑わった唐津西港石炭埠頭(今の西唐津駅と大島方面)。
起爆装置である雷管も我が国では英国とドイツからの輸入で始まった。大正2年(1913年)清水荘次郎らは我が国初の国産電気雷管製造会社である清水合名会社を福岡県粕屋郡多々良村(現在の福岡市東区)に設立、次いで同5年(1916年)清水荘次郎、宮島徳太郎らは唐津市東町に唐津火工品製作所を設立した。この2社はのち合併して西日本火工品(株)となり、電気雷管を製造販売した。同社は平成12年(2000年)電気雷管の製造を終えるにあたり、社名を(株)ニシカとして現在に至っている。下の写真は大正7年(1918年)明治鉱業(株)(安川グループの鉱山会社)が発行した「宮島式電気雷管」の品質証明書。
宮島家の事業は次第に拡大したので明治43年(1910年)資本金10万円で合資会社宮島商店を創立し、宮島徳太郎が代表社員に就任した。
明治40年(1907年)刊行の「唐津商工名鑑」に記載された事業紹介(下の写真)がある。
宮島商店は①石炭部、②醤油部、③雑貨部の3部制となっている。各部の細目は①石炭輸出商、東京海上保険(株)代理店、東京汽船(株)代理店、東京浅野商店石炭部代理店、②醤油味噌製造、③鉄砲火薬ダイナマイト類一切、度量衡、札幌ビール、スコップ、浅野セメント、佐賀セメント、除虫油、其他雑品とある。
宮島商店は大正7年(1918年)株式会社化された。資本金は50万円で、唐津の本店以外に、伊万里、長崎、戸畑、直方に支店が置かれた。事業所所在地から、石炭事業との関連の深さが窺われる。昭和17年(1942年)の機構改革により、(株)宮島商店は①経理部、②醤油部、③火薬部の3部制となった。
第二次世界大戦後の昭和25年(1950年)、(株)宮島商店は宮島醤油(株)と宮島商事(株)に分割された。宮島醤油(株)は醤油味噌など食品の製造販売を、宮島商事(株)は産業火薬類と食品の卸商社として設立された。十世宮島傳兵衞が設立から平成16年(2004年)まで社長を務め、同年宮島清一が社長に就任して現在に至っている。
2. 産業火薬事業1960年代以降、石炭産業は衰退したが、新幹線、高速道路、空港等の土木工事が活況を呈し、火薬事業は好調を維持した。1990年代以降、全国の火薬需要は減退したが、防災を含む国土インフラ整備は引き続き重要分野であり、火薬類の安全で確実な供給に取り組んでいる。平成23年(2011年)長崎県に合同会社彼杵火薬店を設立し、令和元年(2019年)五島出張所と上五島出張所を開設した。
3. 事務機事業昭和42年(1972年)唐津市中央商店街に宮島商事京町店を開設。文房具・事務機事業に参入。同58年(1983年)事務機センターを開設した。コンピューター、プリンターなど個々の事務機器だけでなくオフィスの設計からお任せいただける事業として展開している。
平成16年(2004年)宮島商事(株)は食品販売事業を宮島醤油(株)に譲渡し、同事業から撤退した。平成17年(2005年)旧長崎支店跡に宮島五島町パーキング(三層の立体駐車場)を建設して不動産事業を強化。
5. 現況
事業部門:①産業火薬、②事務機、③不動産
事業所:本社:佐賀県唐津市、
本社外事業所:佐世保(営)、宇部(営)、田川(出)、五島(出)上五島(出)、
事務機センター、宮島五島町パーキング、
関連会社:(同)彼杵火薬店。